智福寺の歴史

◎智福寺について

 資料からみる智福寺開創と芝田町への移建の頃

智福寺は現在地の練馬区上石神井に移転してきてから本年(平成二十八年)で五十年経ちますが、移転前は港区芝田町にありました。

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開創は、江戸時代初期の寛永二年(1625年)春、桜田元町に光誉一空(こうよいっくう)上人によって開かれました。それは徳川家光が三代将軍に就いて二年後のことでした。しかし、後に幕府の御用地になったため、芝田町に移転することになりました。いつ頃移転したのかは、文政年間(1818~1829年)に幕府によって編纂された『文政寺社書上』によっても、「右場所御用地ニ相成、年月不知、只今之所ヘ転地被仰付候」と、あるだけで不明であります。

また、『港区史』によりますと、「それが今の智福寺境内であるとされる理由として、同寺に伝わる『智福寺開山一空上人略伝記』に寛永二年(1625年)智福寺の創建された桜田元町は、いつの頃か幕府用地となり、替地を求めることになったが、現在の土地が、以前の刑場で空地となっていたのを、他のことに用いるよりは寺院とすれば刑死した者も浮かばれようとして、ここに移ったとあるということ(原胤昭氏の説)、また明和八年(1771年)智福寺が初めてそこにみえるより前の江戸絵地図に、周囲がすっかり人家に埋もれているのに、なお空地のまま取り残されていること、耶蘇会側の記録にみえるとおり、江戸の市街へ入る門戸にあたり、上方へ通ずる街道沿いの広場で、後方に見物人の群集する小高い丘があり、また街道の前方はすぐ海であったという状況に一致することなどがあげられる。」と、ありますように、桜田元町から芝田町のキリシタン処刑地跡に移転してきました。

芝田町の境内にありました、殉教記念碑には、前面に邦文、裏面に英文の碑文が刻まれています。前面の全文は次の通りです。「基督降世紀元一千六百二十三年十二月四日、元和九年徳川三代将軍家光専制治下の江戸に於て吉利支丹宗門イエズス会士エロニモ・デ・アンゼリス神父、シモン遠甫修士、フランシスコ会士フランシスコ・ガルヴェス神父、原主水等五十名の男子は人類の救いのために、人となり給うた神なるキリストに対する揺るぎなき信仰と熱愛とを証し、火刑の苦しみに耐て此の地於いて生命を捧げた。茲に在東京男子カトリック教徒は此の事績を想起し、此の感銘を石に刻み、彼等の雄々しい霊魂に対して絶えざる崇敬の念を表掲する。  昭和三十一年十二月四日  建立   」

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 明治から昭和四十年頃までの智福寺

慶應三年(1867年)、最後の将軍慶喜が大政奉還をし、二百六十余年にわたった徳川幕府が崩壊し、明治維新を迎えました。勝海舟と西郷隆盛の会見により江戸城明け渡しが無血で行われ、江戸の町は火の海にならずにすみました。新政府によって神仏習合を廃止する神仏分離令が布告されると、廃仏毀釈運動が全国に広がっていきました。神武天皇創業への立ち帰りを目指す「王政復古」による神祇崇拝によるものでありますが、この運動によって多くの寺院や仏像が破壊されました。そして追い打ちをかけるように、明治四年(1871年)、寺社領土地令により寺領が没収され、境内地は全て官有地とされました。法難といわれるこの事件により、全国の各寺院は一様に荒廃への道をたどることになります。

明治五年(1872年)、新政府によって一宗一管長制が定められ、知恩院は浄土宗の総本山となります。それにより、智福寺は知恩院と本末関係を結び、末寺となりました。

明治四十四年八月十日には崖崩れによる建物倒壊

大正十二年(1923年)、関東大震災が未曾有の被害を東京にもたらしましたが、幸い智福寺は大きな被害を被らずにすみました。しかし、大正十四年十月一日には崖崩れで本堂・庫裡八十余坪の建物が倒壊、墓地約二百坪丈余の土砂に埋没する災難に遭遇しています。

昭和十九年十一月二十四日、米国による大編隊からなる本格的な初空襲から終戦の八月十五日に至るまで、東京は百回近い空襲を受け、四十万発以上の爆弾と焼夷弾を浴びました。特に三月十日未明の大空襲は、戦略爆撃による東京空襲中、最大の被害をみた空襲でありました。この空襲による大火災は、大正十二年の関東大震災に匹敵する被害をもたらし、港区でも旧芝区の区域はその五十%が焼失したといわれています。こうした度重なる空襲下にあって奇跡的に焼失を免れてきた智福寺も、ついに三月二十五日の大空襲により、堂宇が全焼しました。

 

 ○練馬区上石神井への移転 

高度成長政策で日本経済が急速に発展し始めた昭和三十六年(1961年)、近代化の流れ、様々な理由で智福寺の移転の話しが浮上しました。

智福寺は都内でも数少ない高い崖下に位置し、明治四十四年の崖崩れによる建物倒壊、さらにまた、大正十四年の崖崩れで本堂・庫裡の建物が倒壊、墓地が土砂に埋没する災難に遭遇しました。大雨の都度、崖地の土砂が墓地に流出する状態で、自然災害を受けやすい立地条件の地にありました。近い将来、本堂・庫裡の本建築を実施しなければならず、その場合このような崖下の災害を受けやすい場所でよいものであろうかと、移転へむけて動き出しました。

そして、様々な協議、諸問題を乗り越えまして、昭和四十一年(1966年)七月二十四日港区芝田町より、練馬区上石神井に智福寺の移転が完了しまして、現在に至っております。